中遠広域事務組合
トップ お知らせ更新情報 中遠広域事務組合 粗大ごみ処理施設 一般廃棄物最終処分場 中遠めぐり 中遠昔ばなし ごみ探検隊 環境への取り組み リンク
トップ中遠昔ばなし > 馬伏塚城跡(袋井市) ←前へ戻る

中遠昔ばなし

第136話   (まむしづかじょうあと)
馬伏塚城跡(袋井市)

馬伏塚城跡(袋井市)

 この城はいつ築かれたか明らかではありませんが、文亀(ぶんき)元年(1501年)に遠江国守護であった斯波(しば)氏と駿河国守護であった今川氏が遠江国の支配権をめぐって中遠地域で激しい戦闘が繰り広げられた時に、今川方の拠点として座王城(ざおうじょう)[袋井市久野]・天方城(あまがたじょう)[森町大鳥居]と共に登場しており、この時には城塞としての機能を果たしていたことがわかります。
 城主として確かな史料に登場する最初は、今川氏の重臣で遠江小笠原氏と呼ばれる小笠原春茂(はるしげ)[春義・春儀]とその子の氏興(うじおき)[氏清]であり、高天神城(たかてんじんじょう)[大東町土方(ひじかた)]の城主も兼ねていたとされます。
 今川氏が滅亡すると、小笠原氏は徳川家康の配下となります。
 天正(てんしょう)2年(1574年)6月17日、南遠地方の要(かなめ)であった高天神城が落城し、徳川方から武田勝頼(かつより)の手に支配が移ると、家康は馬伏塚城(まむしづかじょう)を高天神城攻略の作戦本部と位置付け、8月1日から大改修を行って現在の岡山集落全域を取り込む城郭に造りあげました。
 城主には家康の重臣である大須賀康高(やすたか)を置き、天正9年(1581年)に高天神城が落城するまで、天正6年に築かれた大須賀城と共に、戦略上重要な位置を占めます。
 しかし、徳川家康による遠江支配が安定する天正10年にはその役割を終えて廃城となり、跡地に岡山村が形成されていきました。現在も小字名(こあざな)として残る破城(はじょう)[羽城]は、城打ち壊しの儀式が地名として残ったものとかんがえられます。
 城名の馬伏塚城(まむしづかじょう)の読みは、「まむしづか」「まぶせづか」と両方ありますが、現在では一般的に「まむしづか」と読んでいます。

(「史跡 馬伏塚城跡」説明看板より)

「史跡 馬伏塚城跡」説明看板   馬伏塚城 本曲輪跡
「史跡 馬伏塚城跡」説明看板   馬伏塚城 本曲輪跡

←前へ戻る

COPYRIGHT (C) CHUEN AREA JOINT ADMINISTRATION BLOC OFFICE ASSOCIATION ALL RIGHTS RESERVED. ↑このページの先頭へ