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中遠昔ばなし

第135話   (ごんげんもりときりふきだに)
権現森と霧吹谷(森町)

権現森と霧吹谷(森町)

 天正二年(一五七四年)の徳川家康の犬居城(いぬいじょう)攻めは、大雨にたたられ、気田川(けたがわ)を目の前にして撤退を余儀なくされたのです。
 この引き揚げの途中、徳川軍は、天野軍の厳しい追撃にあうことになります。
 徳川軍の殿(しんがり)は、重臣の大久保忠世(ただよ)隊がつとめました。地の利を得た天野軍は、地元の加勢もあって、田能村(たのうむら)の街道坂や天神森などで激しく徳川軍に襲いかかりました。徳川軍の必死の防戦にもかかわらず、危険はついに総大将の家康の身辺にまで及んだのです。
 折しも四月(旧暦)の長雨のため、家康軍が、この大久保まで敗走して来た時、幸治沢(こうじざわ)の谷より濃い霧が立ちのぼり、辺り一面をおおったのでした。家康一行は、この霧に守られ、樫(かし)や椎(しい)の大木の茂る谷間の森の中に逃れました。森の中の樫の木の大きな洞(うろ)に潜み、天野軍の一時の追撃をかわしたのでした。
 後に、この森を「権現森(ごんげんもり)」と言い、幸治沢を「霧吹谷(きりふきだに)」と言うようになったと言われています。
 言い伝えのもととなった樫の大木は、昭和三十四年(一九五九年)の伊勢湾台風で倒れてしまいましたが、今でも、谷や木々の姿にそれとなく往時をしのぶことができます。

(戦国夢街道「権現森と霧吹谷」説明看板より)

戦国夢街道「権現森と霧吹谷」説明看板   説明看板付近からの眺め
戦国夢街道「権現森と霧吹谷」説明看板   説明看板付近からの眺め

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