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中遠昔ばなし

第89話   (ちょうじんこうきちのはか)
鳥人幸吉の墓(磐田市)

鳥人幸吉の墓(磐田市)

 鳥人幸吉こと浮田幸吉(うきたこうきち)は、岡山市(おかやまし)の南、玉野市の八浜(はちはま)(はちはま)の生まれで、家は桜屋(さくらや)という旅宿を営(いとな)んでいた。七歳(ななさい)の頃(ころ)、父を失(うしな)い近くの親類(しんるい)である傘屋(かさや)に預(あず)けられ、後に岡山の表具屋へ移(うつ)った。生来の器用(きよう)さから腕(うで)を上げ、得意先(とくいさき)から指名されるほどになった。店は岡山城の西、上之町(現:表町[おもてまち])という商人町(あきんどまち)にあった。
 八浜に伝(つた)わる話では、「仕事場にいなくなったと思うと、近くの蓮昌寺(れんしょうじ)の境内(けいだい)に来て、ハトの群(む)れをじっと眺(なが)めていたことがたびたびあった」という。一羽のハトをつかまえると、翼(つばさ)の大きさと体重を計り、自分の体にあうように竹と紙で片翼(かたよく)ずつ作り、両脇(りょうわき)にくくりつけて胸(むね)の前の棒(ぼう)を動かして羽ばたく仕掛(しか)けにした。
 天明六年(1786)旧暦(きゅうれき)六月の夜八時頃、28歳の幸吉は岡山市の中央を流れる旭川(あさひがわ)の京橋から、「エイッ」とばかりに欄干(らんかん)(らんかん)をけった。羽ばたくには腕の力が足りなかったが、翼は水平に固定(こてい)され幸吉は見事に滑空(かっくう)した。飛(と)んだのは「七〇歩ばかり」というから約五〇メートルほど、ライト兄弟が初(はじ)めて飛行(ひこう)した年よりも118年も前のことである。河原(かわら)で夕涼(ゆうず)みをしていた連中(れんちゅう)はびっくり仰天(ぎょうてん)、「天狗(てんぐ)だ」とばかりお上(かみ)へ通報(つうほう)。このようなことが許(ゆる)されない封建時代(ほうけんじだい)のこと、たちまち翌朝(よくあさ)には御用(ごよう)となり翼は没収(ぼっしゅう)、岡山城下から所払い(ところばらい)となった。
 八浜に戻った幸吉は船乗りになり、静岡へ来て雑貨商(ざっかしょう)「備前屋(びぜんや)」を開業、かなり繁昌(はんじょう)した。自分はかつて覚(おぼ)えた入れ歯作り、時計修理(とけいしゅうり)を副業(ふくぎょう)としていたが、空へのあこがれ止み難く(やみがたく)、51歳のとき、体力的に最後(さいご)のチャンスと、またもや安倍川の河原(かわら)で家族や職人(しょくにん)の引く綱(つな)に引っ張(ぱ)られて空中散歩(くうちゅうさんぽ)を楽しんだ。これまたお上の知るところとなり静岡を追放となった。大和田友蔵の世話で見付宿へやって来た幸吉は飯屋(めしや)を営み(見付郵便局付近)、弘化(こうか)四年(1847)8月21日九〇歳で波乱(はらん)の人生を閉(と)じた。二番町大見寺の墓地(ぼち)に「演誉清岳信士」(えんよせいがくしんじ)と刻(きざ)まれた墓石(はかいし)が現存(げんぞん)し、過去帳(かこちょう)にも記載(きさい)されている。

(「磐田ものがたり」より)

現在の鳥人幸吉(浮田幸吉)の墓
現在の鳥人幸吉(浮田幸吉)の墓
大見寺の境内の中にある模型(実物の約2分の1の大きさ)
大見寺の境内の中にある模型(実物の約2分の1の大きさ)

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