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第88話 | (みなもとのともながこうのはか) 源朝長公の墓(袋井市) |
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現在の源朝長公の墓 |
三川(みつかわ)地区友永(ともなが)のお寺、積雲院(せきうんいん)には、源朝長(みなもとのともなが)[頼朝(よりとも)の兄]の五輪のお墓があります。 平治の乱(へいじのらん)に敗れた「源義朝(みなもとのよしとも)」は、わずかの家来と共に都を落ちて、美濃の国(みののくに)青墓(あおはか)の宿に辿(たど)りつきました。ここで義朝は、長男「義平(よしひら)」に美濃飛騨(みのひだ)に兵を募(つの)らせ、次男「朝長」には、信濃甲斐(しなのかい)の源氏を集めさせ、自分は海道の味方を集めて攻(せ)め上がり、再起をはかろうとしました。 しかし「朝長」が、敵の矢に射られた右足の傷が悪化して歩く事も出来なくなり、自害してしまいました。 家来の大谷忠太(おおやのちゅうた)は、朝長の首を抱(だ)いて故郷の遠州大谷村(えんしゅうおおやむら)に帰り、墓守(はかもり)をして世を終ったと伝えられています。 建久(けんきゅう)元年(1190年)十月、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)として「源頼朝(みなもとのよりとも)」が京へ上る時、この地に立寄り兄朝長のお墓へおまいりしました。 そして兄の為(ため)にお寺を建て菩提(ぼだい)を弔(とむら)ったという事です。 この時頼朝は、松二本を植えて墓印(はかのしるし)にしました。やがてその松は成長し「頼朝松(よりともまつ)」とも「2本松」とも言われていました。 ところが何年かたってその松が枯(か)れ、その後に二代目の松が植えられましたが、その松もマツクイムシによって枯れ、切られてしまいました。 忠太(ちゅうた)の館(やかた)のあった所は殿ヶ谷(とのがや)と呼ばれ、友永の地名も昔は朝長と書かれていましたが、現在の友永に変ったという事です。 又、朝長公(ともながこう)を神として祀(まつ)ってあるのが裏山の中段にある「御沙汰神社(ごさたじんじゃ)」です。御沙汰神社の御神体(ごじんたい)は朝長公が馬に乗り、両脇(りょうわき)に一人は馬の口取り、一人は大谷忠太が付き添(そ)う所を彫(ほ)ったものです。 鳥居の額(ひたい)には御沙汰明神(ごさたみょうじん)と書かれてあります。どうして御沙汰と言われるようになったかはっきりわからないですが、この神霊(しんれい)は公事(こうじ)の沙汰(さた)を早速(さっそく)叶(かな)えてくれるといい、公事(こうじ)訴訟(そしょう)のある村々は、お祈(いの)りすればすぐ勝(かち)となると言われて信仰(しんこう)されていました。 友永の積雲院の境内(けいだい)には、父「源義朝」その長男「義平」そして次男「朝長」の親子三人の五輪の石塔(せきとう)とその横には新しく記念の石碑(せきひ)も建てられてあります。 (「袋井に伝わる昔話」より) |
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